まいいやな、やわらかさ。

「やりたいこと」とか「やるべきこと」についてはあまり興味がない。
じぶんのすることに対してどこまで向き合えるか。
これは疲れるけれども、
じぶんに対しての期待と動機に接触できて面白い。
言葉って粘度みたいなもので、
その作れるものの幅の広さに可能性を感じるのだろうな。
それはじぶんや関わり
(友人、家族や会社、仕事や日本、世界って言ってもいいかもしれない)
との作れるものの幅の可能性を感じてすきということでもある。
そういうことについて生まれついてすきになるってことはないよね。
だんだん粘土をこねていくと空気が抜けてやわらかくなっていくってのがいいね〜。
あ、それにしても、
師走の行く年来る年感っていうのはぼくはきらいじゃないんだけれど、
じぶんとまわりから醸し出される空気からじぶんの粘土が堅くなってきて、
やわらかさとか余裕・余白みたいなものがなくなってきてるなぁ。
まいいや、ってどっかで思ってるおこう。
近頃まじめに働きすきだぞ。いかんいかん。

偶然的必然性への三つの点とニュートラルに機嫌よく。

何か意見を考える時に、
昔だったら本音と建て前というのがあったかもしれない。
今だと、
個人のルールと組織のルールという大きなルールを二つ持つ事になるのだろう。
この二つルール、モデルというのを僕は尊重したいと思っている。
どちらか一つのルールが必ずしも正しい、正義ってやつでもないだろう。
その二つの矛盾するともいえるルールを抱えながら、
考え、悩むというのはとても良いことで、
間違っているとしても、正しい間違い方をすると思う。
個人のルールだけでも、
組織のルールだけでも、
そして、二点を結んだ地点のルールだけでも、
おそらくはだめなのだろう。
三点で結ばれた三角形は、人によって、時代によって違い、
その偶然性は捨てたものじゃない必然性を持っていると思う。
またそれからは逃れられないし、逃れる必要もない。
その偶然的必然性のために、ニュートラルでいられること。
ニュートラルでいるから偶然的必然性に出会えるのだと思う。
そこで上機嫌じゃなくってもいい。
なんだか、上機嫌じゃなきゃだめみたいになってないかい。
機嫌が悪いと、最悪ってなってないかい。
ニュートラルで機嫌がいいってぐらいいいんじゃないかなぁ。
そういう楽しみ方を僕はしていたいです。

今敏さん・川本喜八郎さん逝く。

世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし
喜怒哀楽を感じる時にぼくはこの在原業平の歌を思いかべる。
けれども、
谷川俊太郎さんの「二十億光年の孤独」みたく、
喜怒哀楽を感じる孤独があるからこそ、
人や世の中と関わるエネルギーが生まれるのだろう。
だから僕はこの孤独を甘んじてうける。
それは今敏さんや川本喜八郎さんが歩んできた道だろう。
その長い道程は自らを孤独を味わう所へと進ませ、
しかし他を拒んたり、自らだけが認める世界ではなく、
自らを認め、世の中・世界・他者を認める橋を構築していた。
つまりは自立である。
この自立なくして素晴らしい作品はありえない。
自立しているからこそ出るメッセージは絶え間なく届く。
お二人もそのメッセージを受け取ったからこそ、
素晴らし作品、素晴らしい人柄に成り得たのでしょう。
これからも素晴らしき孤独から放たれるメッセージを私たちは忘れない。
合掌。

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千年女優 [DVD]

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BORN TO RUN 走るために生まれた 著クリストファー・マクドゥーガル

現代人にとって「走る」というのは、行為である。
しかし、
我々は本来「生きる」ということは、「走る」ということであった。
それを著者であるマクドゥーガル自身が出会うウルトラランナーたち、
そして走る部族タラウマラ族を通して教えてくれる。
現代では隔絶された「走る」というものが、
惜しげもなく備わっている驚きの事実を、
スーパードゥーバー口調と表情が体から染み出てきて、
読者は彼らと共にランナーズハイとリーディングハイを同時に味わう事になる。
しかしそれだけでは高音域だけが奏でられただけだろう。
本書の通奏低音として、
多種多様なる興味を持ちながら生きる事を許容している。
本来の生き方などというのは、
一種エリアを狭めこだわり、選択していくことだろう。
しかし、人間はそれだけでは生きていけない。
選ぶことの大事さも説きながら、
選ばれなかったものへの愛情を忘れない。
選ぶ理由というのは個人的状況であり、問題で、
選ばれなかった事というのはそれはそれで正しいのである。
僕にはそう教えてくれた、名著である。

井上ひさしさん 死去。

まっすぐに日本語を考え、
まっすぐに日本語を読み、
まっすぐに日本語を書いてらした方と思います。
その中には、
人形劇「ひょっこりひょうたん島」や、
数々の舞台、小説などたくさんがあられた。
それは日本語の長い道を引き継がれ、
まっすぐに見据え、そして歩いてこられた道程。
派手でもない、しかし枯れてもいない、
軽さや重さも偏らず、
ごまかさず、しかしまじりけを許し、
敷居を取り除いた、深みのある文。
それが井上さんご自身の存在感でもあられた。
心技体を立派にお持ちで、
ちっとも威張らずに、平気で居て、
緩やかに逞しい。
一つ一つの言葉を信じるが故に、
一切合切をそのままおく。
なお、
足し算や引き算、掛け合わせたりという魅力もご存じである。
海水と真水が混じる場所にいる魚はよく育つ。
それを食すものが豊富な栄養と共に、
しなかやに育つ。
土壌を耕し、水を濾過し、森を茂らせ、
生物たちを育てた。
その先にある場所をぼくは見つめ続けられる事を、
何よりも望み、欲したい。
ありがとう、井上さん。

半分の自分でいる

なんだか大きな理想を掲げてはじめるよりも、
とても近くあることを大事にしている。
つまりは仕事をするにあたって、
理念などの大仰なところからではない。
それはとても大事な気がしますね。
小説などを読んでいても、
とても身近なところにテーマを置いているものが増えている。
音楽などもそうだろう、
大山鳴動よりも、
目に映るところからの想像へと向かっている。
ぼくはこれはとても大事なことだと思う。
社会が大きく動いたり、
構造が移ろう時にも、
主義を越えたものは隣人であり、家人であり、友人なのだ。
今までは、
100%や120%を目指して安心するが不満足だった。
そして不満足なことに不機嫌になる。
だけれども、
自分の出来る50%ぐらいを見つめ直して、
50%を友人などの身近な人を信頼する時代なのだろう。
そんな組織って面白いわ。
平気で生きるってことが大事な時代って、
ここにも書いたことがあるが、やっぱりそうなってきたなぁ〜。
半分の自分でいる、そしてそれを楽しむっていいかもね。

J・D・サリンジャー死去

サリンジャーの小説はどこか青臭い。
でもその青臭いことを無碍に嫌うことはできない。
なぜなら、おいらたちだって、青臭い。
現実の話を大きく語ったり、小さく語ったり、
なかなか現実をそのままに語るなんてできっこない。
それはつまりは夢を語っているのと同じだ。
その夢、または想像たちは言葉によって膨らませられる。
ひとりではないという証明書のように、
言葉が形作られていく。
友人や家族という愛すべき隣人たちによって。
サリンジャーが映し出した世界は、
そういった愛すべき隣人たちによって、
我々は青臭くも想像的な夢を持ち、
それこそがひとりひとりがもっている物語性というものだろう。
おいらはこの物語性が大好きだ。
ひとりひとりが数多ある偶然と出会いながらも、
必然的に物語性を持っている信じているし、
またそれは幸せなことなのだろうと。