9年目と。

サイトを開いてから9年が経ちます。
来ていただいてありがとうございます。
牛歩よりも遅いペースですが、続けて行きたいと思います。
TwitterFacebookなどと違い、一度登録したら自動更新されるのとは違い、
わざわざ来ていただいている。
本当にありがたいです。
これから、この「わざわざ」来てもらっている関係がより大事になってくるの
だと震災を経て改めて思います。
阪神淡路大震災の時はまだ「大人」にはなっていなかったけれど、
こうやって大人になって、
やっぱりどこかに呼んでもらえる人、
なにかあったら、
いや、なにもなくても声かけてもらえる人でいたいと思う。
うまく言えないがそう思うのです。

あれから一年が経ち、
いろいろな議論を目にする。
何が「正しいのか」とかとか。
そうやって行き着くのは「言ってもわかりあえない」世界に、
段々となってきている。
もともと僕も、僕自身について「わかりあっている」なんて言えないし、
本来人同士はわかりあうのは難しいのかもしれない。
だけれども、どこか妥協して、縁を作っていくのだろう。
震災後、「絆」が大事にされた。
もちろん大事だ。これは、従来の関係をより強く太くするイメージだろう。
それだけじゃしんどい。
より、広くにが「縁」なのだと思う。
コミュニティというと「バーチャル」な世界をイマドキ浮かべたりするが、
地に足をついた現地同士を繋げるイメージがより大事なのだと思う。
繋がり、かかわっていくときに忘れてはならないのが、
意見を言うことよりも、
まず聞くことだ、見ることだ。
震災に限らずに、
現地を前に進めるために、活発にするために「情報」があるはずなのに、
それよりも「情報」を活かすために現地があるかのようになってしまい、
知らないところで、
思い込み、レッテル、邪推などをしてしまう。
たしかに情報やイメージや知識は大事だ。
だけれども、
それですれ違っていくことの悲しさは貴方はどれだけ、
想像しているのだろうか。
気軽にやってはいけないなんて思わない。
むしろ、真剣にやるのを「続ける」ためにはカジュアルさは必要だ。
ただただ、深刻な顔だけになるとそれこそ何のためなのか忘れられるのは、
この一年嫌というほど見てきた。

「日本は変わってしまった」というのもこの一年見てきた。
しかし本当にそうなのだろうか。
たしかに変わった部分があるだろう。
可視化や表面化されてなかった問題が表に出たという意味では。
バラバラだったのが、表面化しただけだ。
ジャンル分野横断的であり分水嶺をテーマ扱っているということだ。
少なからず的外れで批判的意見がなされるのは含まれる事になる。
しかしながら原発や政治の状況を見ても、
ジャンル横断的な言語によるコミュニケーションをとれているとはまったく思えないし、本来ならばジャンルに関わらず当事者になりうり、
当事者ならばどうすべきかという、入門書と専門書しかない中で、
とっても現在的かつ古くて新しい必要性について
語られて来なかったどこかシニカルで、
コンスタティブにジレンマの条件をしめしつつもオルタナティブな行為だと思う。
それはいわゆる「3.11で日本は変わった」と
「もともとあったものがバラバラな状況が表面化した」
の両輪が駆動しているのだと思う。周知の平成不況などにより、
より細分化された産業構造はギリギリまでシンプルかスリムかパターン化され、
もはやその業界たらしめていた構成要素すらも失いかけており、
事実無くして来ている業界もあると言っていいだろう。
それらを維持するためにもジャンル横断的視野に基づく言語とワークスタイル
(他に適応な単語があるとも思うがひとまずは。)を求められていたし、
メジャーがあるからこそサブカルチャーが成立しフォローし叱咤激励し、
また逆も然りであるように、
お互いのそして自らの要素を語るリトマス紙的な相関関係が
あまりにも忘れられていた事からの共犯者へと帰路であり、
進路が「3.11以前のバラバラになっていた日本」だと思う。
そんな前提状況がある中で、
震災によって「バラバラだけどつながれるにはどうすればよいか」という、
これまた古くて新しいテーマを突きつけられた。
ひとつは、当事者同士の前提条件はそれぞれに不平等であり差がある事を、
簡単な二項対立でない様々な事実と想像をめぐらせなければならない。
また時には意見がすれ違う事を知る事も大事だろう。
そうやって、意見がすれちがってしまうほどに不平等であり
同士の条件は違うということだ。
そんな条件たちがあることは残念ではあるが、
そこで何かにペシミシティックになることはない。
上記の著者たちがしたようにコンスタティブに、
事実確認として知り、認識することだ。
また古くて新しいテーマであり、各ジャンル領域が島宇宙的な成立をし、
その成立すら難しくなっている中で、
そのようにすれ違いをするというジレンマからは目を逸らしてはならないし、
そこからしか次なる言語を紡ぐ事は出来ないだろうし、
僕は紡いでいきたい。