新年Twitterはじめました、おめでとう。

いい加減新年のあいさつをしておこう…
遅くなりましたが、
本年もよろしくお願いいたします。

20世紀っていうのは、
大げさにいうと、公私のバランスが崩れ再構築され、
そして、新たなるジャンル分けや世代分けなど、
様々な物事、価値をおさめる箱のようなものが増えた世紀とも言える。
ただ、
ここ数年、明らかにその箱自体が崩されてきている。
公私のどちらとも言えないもの、
どのジャンルに属すると言えばよいのか、
真っ白い箱とも言えるものも。
答えはわからない。
その時々の位相的意見でしか語れない。
先を見据え、などとは簡単には言えない。
大言壮語に難しく語るは易き、行うは居らぬ。
両極に見えたものの距離が縮まる世紀なのかもしれない。
シャッフルされ、表裏一体というより、
馬鹿であることと賢いことの見極めが難しいほどに距離が縮まる。
公と私の距離。
ジャンルとジャンルの距離。
映像と絵の距離。
書き言葉と話し言葉の距離。
男と女の距離。
海外と日本の距離。
人と人の距離。
そんな点と点からの線によって作られた距離が縮まる。
だとすると、
私は何を思い発信し、受け取るのだろうか。
それはたくさんの量のためではないだろう。
たくさんの質のためではあるかもしれない。
何かが得意な人が何を送り、
そして何かを受け取り、また何か得意な事を送る。
その先はなにだろうか。
Twitterは、今それをはじめている一つだろう。
20世紀のもうひとつの特徴といえるのは、
何者かに成らなければならない、何かをしなければならない。
という可及的解答を自らに科している。
その20世紀的可及的解答を求める人間というジャンルが瓦解するのではないだろうか。
もしくは、違うジャンルが生まれるのかもしれない。
ただの人として生きる。
ただひとりの私としてどう生きるか。
とてもあたりまえで、原人的、原初的なことを忘れることはできない。
様々な「二つの距離」を結ぶ私はどう適切なサイズの問題を生み出すことができるのだろうか。
なにかをやれるようにやるためにはそれを見つめるということなのだろう。