主語がないまぜる、世界を。

「世界」というのは20世紀的に考えると、
なにかのメディアを通して見知ったものだったのが、そうじゃないんだなと。
「これが良いんだ」っていうのは経験やエネルギーがいることで、
しかも肩肘張ってツンツンせずに、
すっと綺麗な器を置くみたく言葉として発せるのは大したもんだ。
現状把握して説明的な行動をするのも頭の良さかもしれないが、
自分の思う良いところに行ける良さっていうのはオレは好きだな。
そういうのって、たぶん練習のいる事で、
段々とまっすぐにスマートに出来ることだと思う。
人生論的なものは何か仮想的でほとんどが判然としないのだが、
「これがいい」というのには主語(「私は」など)が見えてすごく納得するんだよな。
情報・知識・人の目っていうのは大事。
連続的で地続きな世の中で独創性を野暮に求めるでもないだろう。
何者かにという駆り立てられるでもない。
ないまぜられた「主語」ではなくて、
「主語」がないまぜることで面白さの磁力が動くと思うんだよな。