314 無題という散歩

社会人になって仕事を何年かしていると、
大事にしている季節とか、月とかの頃合いがあると思う。
そういうことで、ぼくも自分に聞いてみるとだ、
なんだが偶然やっていたことが面白がってみることが出来る。
あえてかっこよくいうと物語みたいなものは、
そういう偶然を無理矢理かもしれないけれど、
楽しんだり面白がったりしていると出来る気がする。
そこで毎回企画書を作ってデザインしている訳ではないけれど、
偶然が作るディテールは本当に面白い。
なんでもないようなことでも、
人それぞれにあるもんだ。
でもさ、知らないうちに作ってるものがたくさんあるだろうなぁ。
作為したつもりがないけれど、やってることって。
正しいかどうかはわからないけど、
出来ることをやっているとそれについてくる気がします。
木を育ててると、それは根や幹や枝を育ててる。
すると、葉や花が押し出されるみたいに育つ。
それと同じように、
どこかで葉や花を育ててる気がしますね。
それぞれの樹によって違う面白さの葉や花が育つみたいに。
それはとてもシンプルで水をやると日に照らす。
そのなんだか何千年も何万年も、
受け継がれている気分になりそうなものが大事なのだそうだ。
散歩というのもそういう気分なんです。
なにかをデザインつもりも作っているものもなく、
受け継がれているみんながしていることだけれど、
なんだかを作っている。
どっかに目的を決める先にタイトルついてる場合もあれば、
特に決めない無題の時もあって、
結果としてなんだかんだ言ってよかったなぁー、
気持ちよかったなぁーと思えるもんです。
ぼくは両方がわりと好きです。
どっちも言った後に、まぁいいんじゃないかって言えますもんねー。
いつのまにか好きになっていることがあるとか、
いつのまにか得意になってることがあるとか、
そういう楽しみがたくさんある。
才能とかよりも大事なものあるはずで、
だからと言って才能が大したもんじゃないと言うつもりもないんだけれど、
それは遊び方の一つだと思うんです。
暮らすのことのなかにある力みたいなものがいいなぁ。