240定番

定番があるのは、共有の財産ていうか、
それこそサービスとしても、
エンターテインメントとしても最高だと思う。
定食屋に行ったらかならず何かのセットや定食があるように、
各ジャンルでそういうものを作っている人たちはすごい。
これって、
やはり型破りのことをしているってことだろう。
それが一つの型となって、熟練者でしか出来なかったことが、
より受け継ぎやすくなり、一つの設定として成立する。
ただ、型破りっていうのは、何も知らなければ、
能無していう無謀に玉を投げているにすぎない。
敢えて知っていいながら、型を壊して、
構築するのが型破りの神髄だろう。
しかし、これは一見今までの型でないから、
両方とも無謀と思われやすかったりする。
どうやって、違いを見分ければいいのか。
それは型破りの神髄っていうのは、
選択の自由があるということだと思う。
神髄には余白あり考える事が出来て、
各々型破りとされたものにはその選択の余白があって、
それを選択することが出来ると思う。
で、お互いにある余白の部分を認め合っていて、
成立つ共有の財産みたいなものが、
定番を作る時の源というか、
そこをどこかでわかっている人が作るチャンスがあるんじゃないかな。
だから、こうなんていうのかな、
情報というか、その場を知るっていうのは、
現場に居るってことが必ずしも良いとは限らないというか、
もちろん、現場の声だとか現場を足で訪れる事から、
得るものはたくさんあるんだけれど、
それはタイプが違うように思う。
現場っていうのは、
素直な流れをしていなくて、とても偶然性みたいなものが、
どれだけ大きいかを取り入れながらやることが多いけれど、
型破りの定番みたいものって、
物事の流れが逆で、
偶然性の組み合われた流れみたいものを、
自分から作りながらも素直にすることだと思うんです。
それこそ、鶏が先か、卵が先かはわからないけれど、
ただ一つ片付けれるのは、
両方があっての本当の姿っていうことだと思うんです。
つまりは、卵がないと鶏は生まれないですし、
鶏が無いと卵は生まれないですし、
それをお互いがどこまで認められるかで、
生業の違う所で共有する部分を財産にしているのが。
また定番を生む力になり、それが循環する仕組みみたいなものがあると思います。