237 自由の練習

ことばを話すにも練習がいるし、
歩き出すにも練習がいる。
それを子どもが学校に通いながら、
学んでいくと思うんですよ。
教えられて、練習をすることってたくさんあると思うんです。
学んだことから実践に行くまでの助走として、
その練習をするのがとても大事だと思う。
で、学んだことと実践の距離がどんどん遠くなっている。
それは、学ぶって事が頭の中で処理することにされてきているから。
本来、学ぶっていうのは、
その事に対して価値があるかないかだと思う。
で、それを練習としてやってみて実りを感じるまで含めるのが、
学ぶ事の意義だと思うです。
そして、価値がなかったと知ることも、また善きかな、
っていう寛容があるとこまでもある。
自由であってもそうだと思う。
自由になることって、
まさに価値がある事を知り、するって事だと思う。
しかし、その練習の場面が少なくなっているなぁって思う。
シフトとして実践にすぐに移すべきことはある。
所謂、勝ち戦というやつで、ここはやるぞ。
っと号令をだす所。
だけど、その練習において、自由さを学ぶ、
それは今どこなのだろう?
っと疑問なんです。
実践が一番鍛えられるっていうのも、わかる。
やはり実践の意識があっての、練習だと思います。
練習って、言わば必要な無駄。
必ずも求められない助走で、後々繋がるかもわからない。
そういう事をした、本番の走りって強いと思うんです。
自分の実力を増やし過ぎも、減らし過ぎもせずに、
しっかりと自力で走れると思うんです。
で、自分のやるべき事もわかると思うんです。
自己責任型の社会、つまりは自立した社会を憂い続けているが、
本当はその助走することを許すことじゃないだろうか。
いきなり本番で走ることが出来る人もたくさんいると思う。
そして、助走がかかる人もいると思う。
そこまで含めて社会だぞ、それを考えて社会だぞ、
っていう、土壌を作る行為が自立なのかもしれない。