231 風花(かぜはな)相米慎二監督

この映画は相米監督の遺作なりました。
この映画は登場する人物がとても少なくて、
主演の浅野忠信さんと小泉今日子さんの二人のシーンが多いです。
価値観や出会う時の切っ掛けも、出身も違う二人。
出会い、語り合ったことで一致というか、共通するところが出てくる。
この映画も語られて言葉することで映画になる。
メインでしっかりとした対象がない映画で、
見る人や登場人物、製作のスタッフや時代背景などの輪郭がすごくぼやけている。
水墨画で描かれているようなに輪郭と描写の線が混じっている。
現実なのか虚構なのかがわからない。
でも、人と也がわかる。
パラレルのような世界まで連れていく。
人、登場する建物やもの、発せられる言葉が、
そんな馬鹿なっていうのと、あるんだよなこういうこと、を繰り返すんです。
まさに松尾芭蕉の「旅に病んで 夢は枯野を 駆け巡る」。
映画と同様に、俳句も遊びの一種とされていました。
それを風景情景を映すのではなくて、流れるこころの揺れを書いた。
相米監督も、こころの揺れを描いている。
それは幾時代が経ってもあるもの。
人のこころは留まらずに、揺れて、間を作る。
その間が親切や苛立ち、剽軽さや賢さなんかを作ったりする。
間という「一つの箱」には、枯野が入っていたりもする。
とても手入れしにくく、無意識なことだけど、
手から離さずにいると、風が吹く。
強くも優しくもある風が。
風は姿形を見せないけれど、咲く花がある。
それが「駆け巡る」ということなのだと思う。
自分の足で歩いている人には、
一枚の写真や風景が何通りにも見えるという。
それはただただ「生まれてきてよかった」とか、
「生きててよかった」という思いなんだ。
言葉のなかに「なによりだな」がいっぱい詰まったものがありそうです。