209 個性との出会い

仕事のほとんが分業化されて、
それで表舞台や裏方が登場してきた。
それはどちらが良いとか悪いとかいうものがじゃない。
表舞台だから偉いとか、賞をもらったから特別なわけじゃない。
各々が必要なことをした結果として居るのだ。
仕事って、
ただの消費や見るだけという、どちらからだけで居るというのは絶対にない。
あらゆる人が作家だし、観覧者だ。
何かに影響を与えたり、与えられたりというのを必ずしていて、
一人ではできないことだ。
どこかの時点で、枝分かれというか、
手段として一人ですることが出てくるかもしれないが、
社会性や誰かの影響などと一緒に裏方の作業を含めて、
やっと結実にいたる。
ローマは一日にしてならず、で、
一人では生きられないというのを形にするかのように、
沢山の歳月や人々が関わった後に生まれる。
その一人では生きられない、生きているんだから一人じゃないというの、
つくづく知るっというのが仕事であったり、生きることだと、
ほんとにぼくは思うんです。
結果としてあるのが、作品であったりお金だったりするんだと思う。
ついでや、二次的なものとして賛否や評価が訪れる。
だが、結果のなには人知れぬ、二次的なものには反映されない、されにくいもの。
それらは尊いもので、感動であったり、情緒であったり、
なにやら意図して、望んで仕入れてない、含めてないものまであったりする。
それはまったく人間というものをよく表しているなぁって思うんですよ、
本望でこれを貰ったんだってばかりの人はいなくて、
むしろこれを待ってたんだというのをどこかで貰っているものなんだと思う。
その王道で恋愛はすごく不可解というか、なぜそうなんだってことだらけ。
聖人君主のような人物でも、恋愛で願ったり叶ったりを生きたわけではないし、
痛手や損でつまずいているもんだ。
恋愛はするもんじゃない、落ちるもんだという言葉があるけれど、
人間の性や、生き物というのをとても出ている。
水という特性を知ったり、しっかりと使うためには、
飲んだり、川や海を流れたり、雨や雪として降って、
汚水や汚染としてなるものまで存在しながら、
全部があってこそです。
水を飲むだけでは、飲むだけのことしか知れず、
飲むのを面白がったり、興味を持てたり、まで行けるのは
すべてのことに目を向けてみることだと。
つまりは一つの点じゃ円が描けなくて、
もう一つ点をとってこその円だし、
それともう二つを点けたら円を二個にする。
複雑に見えるもの、シンプルに見えるものも、
そんな行為を通っている。
はじめの二つの点というのはひとりひとり違っていて、
二個目は社会や人生や物事によって描かれる。
計りしれない個性との出会いは。
だから人、作品がすごく面白くてやめられないんだな。