210 映画魍魎の匣

褒めることが罪になるならば、切腹に値するほどだろうに、
素晴らしかった。
京極夏彦さんの原作を映画とするには、
海水魚を淡水である川で育てるか如く違いで、
よくぞここまでされたと思う。
海水の塩分の部分、つまりは原作の中では情報量が多分であり、
その多分さをページ毎に、行毎に楽しむことができる。
それは文学的思考や思想表現とは違う、
エンターテインメントとしてである。
文学などのテイストを道具として用いることができる、
文章に精通し、本を完成させることができるからこその、
楽しみを与えている。
本映画では、同名のテーマを扱っているが、
違うエンターテインメントとして成立されている。
そして、同名同士は互いに向かっている時の楽しさを享受す。
それはエンターテインメントの本望であり、
生き甲斐とすら言える趣だろう。
話を戻そう。
塩分の部分である、多分な文字量は、
本映画では音とされている。
卓越された役者の演技力を信頼して、
早いセリフ回し、敢えて籠らせて話す、
通常では取り入れない話を同軸に置くなど、
音として映画の中に入れることで、
各人物像を描いている。
この映画は共演するもの同士ですら、像を掴むのは難しいだろう。
それをしっかりと演技で浮かないように映像の中で立つことができる、
日本の役者の力を感じます。
それは現場の雰囲気を逃さないようにきっちりと纏めている、
監督の説得力と演出力が土台にあるだろう。
音楽と映像編集にも強弱をつけ、
テンポを与えている。
文字の情報というのは、非常に負荷不足があって、
事足りるところと、欠損しているところがある。
それを映画、映像化する場合は必ずそこに負担がある。
補えるとするならば、音だろう。
音、音楽というのは象徴や印象となることで、
圧縮され、拝見する時には調和が生まれる。
それらによって、この映画は群像劇であることを知らせている。
そうこの映画は、群像的映像広告である。
素晴らしい広告というのは、物語性を必ず持っている。
それは一つの商品には沢山の人が絡んでいて、
一人ではなし得ないことを意味するだろう。
また、広告そのものが商品として価値が与えられるべきものもある。
長短の様々なスタイルがあるにしても、
飾りを付けられるのではなく、潔いまでにシンプルだ。
これだけの資材がある映画なのに、
そこへと落としどころを持っているのは見事です。
確信犯として出来る勇気もさることながら、
腰を据えて捉えている。
全編を見終えて、その場から切り取られる。
しかし、それで憤ることはない。
ワインのように、
コルクを抜いて開けた瞬間から徐々に味が変わり、
そして最後の一滴を口に入れた時、後味でさえも、気まぐれである。
この映画の正体の見えなさが一番面白いのではないだろうか。
輪郭の周りを描き続けることに徹している。
各々が見た偶像の面白さは本物だろう。
この映画の看板は、群像と偶像の二つ。
重なりあったのが、
魍魎か、魑魅魍魎かは、わからないが。