207 深い河/著遠藤周作

小説は、インドにあるガンジス河に向かった
日本人を描かれているのだけれど、
人生の不思議さ、
良いことも、悪いこともあるというのを
とても出ていると思う。
宗教的または哲学的解釈をインドという場所は
考えざるえない切っ掛けを与えたり、
もしくは与えられた人が行き着いたりするのだろう。
だが、切っ掛けを与えられなかった人にも、
惹き付けられる魅力がある。
多面的であり、面の距離がとても近い国だ。
現在、西欧文化を中心とした国では、
生死というのは離すことで生に励んでいる。
お墓自体を物理的に離すこともそうであるし、
概念として身近なものとしてはしていない。
インドは、現在IT産業を中心とし経済の発展が目覚ましいが、
ヒンドゥー教を主とした宗教的戒律や文化が継続されていて、
身近なものとして考えられている。
その身近さにもあるように、
インドの距離感はとても独特なものに思える。
日本から見た主観とも言えるが、ただそれだけではないように思う。
危機感、安全性、というものとどう距離をとれるかというのは、
西洋文化での傾向だと思う。
それは必要なものもあるだろう。
何事にも無防備で、守りたいものがないっていう、
無鉄砲さよりも守りたいものだらけだけど、
これは譲れないという部分があるからこそ賛同や応援をしたくなる。
インドがかといって無鉄砲であるわけではなく、
危機感や安全性といった不時・不慮を取り込んでいる部分があるのは、
なかなか見習うところだと思うんです。
もちろん、その部分が大手を振って待つものではないが、
危機感や安全性を考えるあまりに悲観や否定的になるよりは、
つまりは頭を使って守ろうとするばかりで苦心をするよりは、
どこかで寛容であることのほうが健康的だと思う。
西洋文化というか、科学は必要で、
だけど万能ではないのを知るっていうのが、
この数世紀あって、配慮とどう使うかを試みる段階だと思う。
それの最たるものが環境問題だろう。
自然の良さの反面怖さもあって、コントロールや防護も必要で、
だから科学やデジタル考えかたを否定するつもりはないんです。
しかし、国家間や宗教的な理由、問題そのものを解決する時の
対処に両者の隔たりがすごくあるのがよくないと思う。
それよりも、両者はとても近い距離であることを知ることと、
それを教え、実行することを考えていくのがいい。
宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」にこんな一節がある。
「みんながめいめいじぶんの神さまがほんとうの神さまだというだろう、
けれどもお互いほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう。」
ぼくもそう思うし、そうあってほしい。