201 自分のスペース

先日、面白い話を聞いた。
犬っていうのは、あまりにも広過ぎる犬小屋というのは、
戸惑ってしまうから、ほどほどの大きさが良いらしい。
つまりは範囲が広すぎると自分の場所が、
どれぐらいなのかわからなくなるということだろう。
それで思い出したことがある。
部屋を移動した時や、引っ越した時に、
部屋の大きさが変わって戸惑っていたんです。
その時は、ほとんど自覚していなかったけれど、
自分の足跡を自分でまた追ってみると、それがすごくわかる。
服をどうしたらいいとか、
CDを、本を、っとどうしたらいいかわからないものがたくさんあった。
数があるのも多少の理由ではあるだろうが、
やっぱり大きさだと思う。
そして、いま自慢できるほどの慣れをしているかというと、
正直言ってしていないだろう。
大袈裟言い方かもしれないが、
安全な場所を広げようと、文字通りに手を替え品を替えやっている気がする。
犬が散歩をしていくマーキングをするというが、
あれは自分の力を示すためだというのもあるだろうが、
自分が信頼できる場所を作って行く行為だと思うのだ。
そして信頼された後にその場所は、遊び場になるだろう。
それが犬の散歩コースだと思う。
時よりその散歩コースをズレたりしながら、
新たなコースを行って信頼するに値するかを確かめたりする。
ま、大袈裟に言うとだ。
気になるのは、信頼するに値するかどうかの基準はなんのだろうか。
その犬、自身が出来ることってあるのだろうか、とも思う。
出来ることって、実はそこに行くことが最大の奉仕。
すなわち、それ以下もそれ以上もないってやつだ。
コースを歩く犬からするとだ、歩く事が受け入れているということだろう。
後は、そのコースが何が出来るかと言うと、
ゴールにせずに、コースらしく途中であることを教えることな気がする。
つまりは、
その途中であるコースは生ものなのだと思う。
生きていると言ってもいいだろう。
それこそ犬が散歩する路地っていうのは、
人の通り道でもあるし、家と家の間に出来たコンクリートの隙間とも言えて、
加工するとか、自然のものとも両方といえる、不思議な空間。
人でいうところの、
大人とも子どもとも言えない、思春期のようなものだろう。
大人になって広げることも、子どもの少し狭いかもしれないものとは異なる。
あれぐらいの広さがいいんじゃないかって、思うんですよ。
大人になって、広げすぎて苦労している人もたくさんいるし、
子どもの広さじゃ足りないこともあったりする。
ほんとうの大人になった時は、単位が変わってくることはあるだろうけど、
自分のなかで思春期の広さを描いてみるとわかりやすそうだ。