198 知らぬが仏

自分が得意としてることって、大なり小なりと、
あったりするけれど、
不得意というか、出来ないと思ってるものも、
何か知らないうちに出来るようになってることって、
あるんだよね。
話しが苦手だと思って中々出来なかった人なんかも、
後輩が居るようになったりして、
自ずと解釈をいれて説明をするようにしていくと、
自分でも、知らないうちに本当は出来ることに
なってる可能性ってあるんだよねー。
そう思うとさ、
自分のなかにある自信とかっていうのは、
どうでもいいんだんぁってすごく思う。
こう、自信があるとか、ないとかって、
ことをさておいて、やってるうちに選択肢として、
それが生まれたりするんですよ。
それって、つまりは、
選択肢って、自分自身で決めることもあるけれど、
自分以外の外の世界の人が選択肢を生んでくれたり、
見つけて示してくれることもあるんです。
自分自身の選択肢は、必然性みたいなのものがあって、
中にある要素からの力がどうやって、
外に繋がるかがとても大きいと思う。
でも、外からの選択肢は、偶然性というか、
ちょっと強引かもしれないない物語性が、
その人自身につけたあだ名のようにして生まれるんじゃないだろうか。
合理性や効率性では見つけにくい、ふっとした瞬間にあるもので、
焦点や本筋ではないかもしれないけれど、
少し目を外した時に見える何気ないようなものを、
教えてくれる。
つまり、座っている時だけや立っている時がその人じゃなくて、
両方がその人ということだと思います。
そうすると、座っている状態だけだと、
身体を動かさず運動不足だなって言うのもわかるし、
立っている状態、歩いている状態が加わると、
今まで見えてなかった部分や、見えていたものも角度が違って見えたり、
また座ってみた時に持ち帰ることがあったりする。
何もなかったても、それはそれとして、
楽しめるほどで、空気を読んだり、作る事が、
実体ばかりじゃなくて楽しめるんでいいですね。