195 好き嫌い

人の好みっていうのは、どこから来るのだろうか?
とても不思議なことだ。
同じ性別で、同じ国、同じ町、同い年の
人でも全く異なる好みになったりする。
今流に考えると、得てる情報が違うって事に
なるのだろう。
それと、もう一つは情報の量が違うということだろう。
確かに、それは大きいと思う。
例えばの話し、沢山話し人が友人であったりすると、
趣味は変わってくると思う。
でも、それは恐らくだけど、木で言うと枝の部分だろう。
それよりも、幹や根の部分があるのだろう。
ぼくなりの、答えは快か不快だと思う。
快、心地よいかどうか。
それがとても大きいと思う。
心地よいかどうかっていう、
とても抽象的な事を説明するのは難しい。
なぜなら、頭の論理や、精神的な道理、身体からの生理的な
ものすべてに通ずるものがあるからだと思う。
これは、いつに個人が獲得するのだろうか?
それは子どもの頃だろう。
その獲得した心地よさと、付き合いはじめるのが
思春期だろうと思う。
その心地よさが必ずしも得れなかったり、無い事を知る。
そして、大人になるにつれて、忘れたり、
それを続けるという関わり方が上手になっていく。
だが、不思議な事に大人をすぎて、
老人に変わると、またその人の好みが戻ってきたりする。
復活するという雰囲気とはそれは違うようだ。
蝶々がサナギから脱皮する感覚に近い気がする。
成虫になるということだろう。
その彼らが生み出すものは、とても不思議なもので、
彼らも受けとる我々も、とても不思議だけど、
面白い体験をさせてくれたりする。
大人になるっていうのは、何十年がかりのことのようだ。
大人っていう、単語に付加価値をつい足したりする。
大人っていうのは、こんな人、あんな人。
あの行動や言葉は大人だな、とかってね。
でも、それは一重に言えることじゃない。
でも、ぼくが思うに、
アウトプットとインプットのバランスが取れているように見える。
外に出す力と、中に取り入れる力。
便利な言葉でいうと、押し引きが出来るというやつだ。
しかし、そのなかには思いのほか、油断がある。
油断というと失礼かもしれないので、余裕としようか。
その余裕は、計算や論理などから由来するものじゃなくて、
もっとものだと思う。
若い時や幼い時に発せられる力は、平面的だけど、
彼らのそれは、立体的な力があるように思う。
平面的というのは、言葉や風景として、単体の力のようもので、
どこか独立しているおもむきがある。
立体的な彼らの力は、複合的であり、今までのものが、
交差したり、構造かしたりする。
それは、どちらがよい悪いではないと思う。
しかし、その立体化されたものは、
彼らが幼い頃にした、体験や目にした風景だろう。
ありがたい事にそれらは、誰ものでもなかったりする。
それはとても豊かだと思う。