191 いのちの食べ方/森達也

不思議なことはたくさんある。
それは思っている以上にもある。
当たり前のことを言う。
子どもの頃、大人はそういうものだと思っていた。
でも、自分が大人になるとわかる。
当たり前のことを言うのは、難しい。
それは、何が当たり前なのかが、難しいのと、
当たり前の事をいう、それ自体が難しいからだろう。
当たり前と似ていているのに、常識がある。
これはなかなかやっかいだ。
なぜやっかいかというと、常識というのは、
その時代や年齢や場所、タイミングによって、変化する。
例えば、昭和の時代、特に戦後の高度成長期より後は、
小学生はランドセルを背負い学校に通うものだとされていた。
しかし、そうされていたのも変わり、思い思いのリュックなどを
背負い学校に通っている。
もちろん、ランドセルを背負う生徒もいるが、
必ずしもではなくなったのは大きな変化だろう。
では、この場合の当たり前とはなんなのか。
思った以上に難しい。
仮説として、言えるのは、生徒は教科書などを持っていく。
そうすると、持っていく鞄、入れ物は限定されない。
そして、する必要がないのもわかってくる。
面白い事に、当たり前のことは、仮説から見えてくることがある。
必ずしも、言いきれないが、当たり前のことを、
仮説として設定する。
それが形になったのが、ランドセルだろう。
それが、様々な状況を経て、常識とされたりする。
いのちの食べ方という映画、
森達也さんは、当たり前のことを教えてくれる。
現在、スーパーなどで常識として、食べ物を買い、食べている。
それは、まったく悪いわけではない。
だが、なぜ常識なのか。
それに到るまでの、当たり前のことを教えてくれる。
それは大事なことだと思う。
偽装事件は、ニュースに取り上げられている。
実際は取り上げられているのは氷山の一角だろう。
なぜ、偽造が起きるのか。
それは、常識が、似せの当たり前とされているからだろう。
常識より以前の、本当の当たり前を知らされてることは、
少なく希で、なかったと言っていいほどです。
しかし、当たり前のそういうこととして、という、
流れは間違いなくある。
確かに、なんもかもを当たり前まで巡るときりがない。
そういうこととしてみなければ進まないこともある。
でも、そういうことになっている当たり前に、
時には目を向けてることが必要だ。
でなければ、そういう事としてくれている人々への感謝を忘れてしまう。
そして、実は当たり前を知ることで、感謝をする、
感謝が出来るという喜びがあるのだから。