180 07.09.11

6年経ち、テロという言葉が一人歩き、
日常的な非常事態化さえも気づかなくなりつつある。
これの用意は様々あるが、
ブッシュ政権が来年には交代し、次への期待と、
アメリカ政権への失望が大いにあるだろう。
そのもとになっているのは、イラク戦争の完全な失敗と、
限りなき環境への関心が急速に高まったことで、
もうすでに、同時多発テロを語るのがタブーになりつつあるのを
ひしひしと感じる。
これを一概には良悪としてするのは難しい、
というのもある種頭を冷やしてきている、
と考えているからだ。
環境問題にしろ、イラク戦争を含む戦争にしろ、
90年代以前から、反対の声はずっとあった。
もちろんいまもある。
時には熱し、そうすることも必要だろう、
っということを現実のなかに入ってきたように思う。
ただ、それが意識しているかどうかが一番大切なのだろう。
現実、つまりは毎日があたりまえのようにある。
それを意識しなくても、いいほどに存在している。
だけど、それはどこかで感謝しているべきだろう。
それは食事をしているとき、寝ている時、笑っている時、
誰かと会っている時、それを意識するかしないかで、
ぼくたちはもっともっと幸せなのじゃないだろうか。
そして、だからこそ、その日常から切り離されてしまう、
戦争や環境問題というのは、意識して、向うべきかもしれない。
どちらも、人を、衣食住を変えてしまう。
アメリカでの、テロが有って以降、
ニューヨークは、クリエティブな町から、
金融街へと変貌した。
心の変化、身体的な変化、が
現実での技術をも変えてしまい、
東京、日本で起った企業の証券化が同様に発奮した。
アメリカ的民主主義のグローバルスタンダードとする
流れが、紋切型でどの町に行ってもある企業が本当に増加した。
もちろん、悪い面ばかりではない。
公共サービスのようにどの町でも使う権利は有するし、
そうすべき点もある。
しかし、そうでない、民主、違う言い方をすると、
個人による企業がどんどん阻まれていっているのは、
良薬を与えられているとは思えない。
イタリアなどでは、個人が経営しているお店や工房が
たくさんあり、無駄もあるかもしれないが、
その中から民芸や芸術が生み出されている。
必ずしもそうとは言いきれないが、
一階のお店が死にたいになった町は繁栄に陰るところがある。
良い例では、フランスのカフェだろう。
悪い例では、イギリスのレストランなどの食事だろう。
環境問題や戦争による住むというのは、
そこまでも変えてしまう可能性がある。
文化にまで、知らないうちに浸食されないことを、
意識しておきたい。