160 池田晶子さん死去

2月23日に亡くなられた。
最後まで生きるという事、
考えるという事、死ぬという事を
人ととして、生活者として、
哲学の人として、筆者として
言葉と体を使って訊いていた。
私が哲学に興味を持ち、手にした本の中に
池田晶子さんは居た。
しかしそれ以前にニュース・ステーションに
出演されたのは強烈なインパクトだった。
当時は1999年頃だった。
学生だった私は科学者が記号と数式を備えて科学を話すように
哲学者、哲学に通じる人間が哲学用語を話すのが当然だと思い、
そして当然のように話すと思っていた。
だが、普段使われる言葉、日常会話のように哲学に向かう姿は圧巻だった。
その言葉は研ぎすまされて、無駄なエッジが削ぎ落とされているが
何か色んなものが芋づる式に受け入れる姿勢には
こんなにも言霊という形容が出来るものなのかと、今思う。
それから数年絶ち、著書を数冊読ませてもらった。
人間の可能性であったり、志であったり、
力強さをとても、とても静かに語っている。
価値についての可能性をもっとも感じた瞬間かもしれない。
恐らくだが、私の哲学に対する母と言っても程の基盤だろう。
では、哲学とは。
感じる=考える=知る=生きる=動く=思う
つまりは自覚する
という事だろう。
著書の中でもそう感じる事がある。
この方は器用ではない。
だからこそ得たものは文化ですらあると言いたい。
文化とは想像を養う事であり、
それは知る事と受け入れる事、
そして自覚と覚悟する事なのだろう。
自らが持っている価値、
それは元々は違う所から来た種であったり、
自らが培った種かもしれない、
それは咲き続けるもの、枯れるもの。
様々だろう、意図、無意識関わらず。
時代で変わるもの、時代が変えてくれるもの、
年齢だからあり、年齢だからなくなるもの、
経験で得るもの、経験で無くすもの、
だけど自覚と覚悟は一生ものだと思っている。
亡くなられた今ですら存在が変わらず、
そしまた不在である偉大さを感じます。
ご冥福をお祈り申し上げます。