152 空っぽ

モヤモヤっとしたり、
絡んみついてしまったり。
自分の中にある模様をめぐらせたりする。
そこで、たまには空っぽにしてやるのもいいんじゃないかぁ。
空っぽにするのってなんだかわからんない
不思議な怖さみたいなのがあるけど、
白いキャンパスみたいにしてやるのも
悪かないなぁって思うのです。
白い次のページに書き始めると、なーんだって事あるもんのですよ。
学生ノートになんだか足し過ぎて判らなくなった経験あるし、
自分が書いたもんだから愛着持つのも、とってもわかる。
でも、また違うページに書いてやると意外とすんなり行く事ってあるんだよなぁ。
それと、閉じたり開いたりする感覚を上手い事使ってやろうじゃないかって。
意識してるから、呼吸してる訳でも、
意識してるから、歩るける訳でもない。
意識する事だって大事さそりゃ。
でも、その大事なもんだけってのも私は違うと思うのだよなぁ。
無意識の出番だって作ってやろうじゃない。
自己判断、自己決定、自己責任。
その自己、
自分、私、俺、わしたちの源は無意識なんじゃないかなぁ。
なんだか知らないけどってあったいいじゃないか。
それは読書から学んだ事なんだけど、
意識と無意識のスイッチが切り替る。
はじめは自覚しながら進めていくけど、
それは読書をどんどんして行くとさ、
オートリバースのようになっていくんだよなぁ。
とっても面白い。
それは開いたり閉じたりをしているって事なんだよなぁ。
だから俺って言う自己の配役だけじゃなくて、
無意識たちにも配役を与えてやると、
なんだか知らないけど立ち振舞いが出来る。
そうやって、ずっと同じページに書いちゃってスペーズがなくなるよりさ、
次のページにいってやるとスペーズが出来るんだよ。
すると、
恋人と同士になったらプリクラを撮ったり、
小学生から中学生になったりすると髪を長くしたり、
大人な氣分でコーヒーを飲みたくなったりさ。
そんな感覚って無意識の配役に任せてある事じゃないかなぁ。
そりゃ、先に理由がある時だって、
後になって理由がある時だってあるよ。
それは無意識の人柄のお陰なんだと思うのだよ。
そりゃ、自己っていう主役は必要だし、
華はあったりするさ。
でも、華ばっかりが出てるドラマって疲れないかい。
やっぱり無意識の人柄が盛りたててくれるのは、
好きだなぁ。
こんな感じで、クリスマスだったり、正月を過ごしてみると
面白そうだなぁって思います。