145 勉強ブーム

自分の中である動かせざる事実としてある「勉強ブーム」。
千と千尋の神隠しの「顔なし」の如く、
シコタマに仕入れて過食のように食べてる時期がある。
これは大体に方向付けを自分で決めた後にする。
ある種のガードレールか、補助輪のようなものだろう。
しっかり向かえってなぐあいに。
この「勉強ブーム」と同時に、
「吐き出す」ブームがある。
ストックをゼロに出來る訳もないのに、出そうとする。
自分を変えたり、作って行く時のコツみたいなものかな。
差し詰め、最近よく思うのだが、
アンバランスや不純や不整列でいいんじゃないかなっと思う。
人はどっかでバランスを取れているのか、
常識や正解や成功なんて事と格鬪する。
ちゃんとした切っ掛けや理論を動機としたりするけど、
実は思わぬ切っ掛けや「それでもやりたい!」や
なんとか帳尻を合わそうとする事で、
とっても良い繋がり・流れが生まれたりする。
表面が整列明晰であるよりも、
もっと内面に不思議な力や考えや知識なんかを持って、
そしてユニーク考えを出したりする事がいいんだって言いたい。
現場で働く、現場を蹈んできた人や、
現場を蹈んで作って働いてきた人の言葉って、
ホントに直線的な言葉じゃなくて、
あのあたりって的をつけて網を放つように感覚的で、
簡潔さから伝わる本質がある。
それは時代なんてそっちのけで、公明正大で
ずっと普遍で直樣に実践出来て、
繰り返し挑んで行こうって品物ばかりだ。
そして近頃感じるのは、
科学者、学者、教授が「簡潔で本質」な品物を公明正大に
広げるようになっている。
ホントに嬉しい事だ。
80・90年代は日本を悲哀し、そして批判する人たちっていうのは沢山いた。
今でも名残もあるし、本流されている所だってある。
だが、「日本の本流を作るじゃないか!」っと、
立ち上がり、立ち上げ、立ち方をユニークに示している。
心強い出来事だ。
現在、TV・インターネットが主動に考えや知識が動いたりする。
でも「場所」ではなくて、
もっと「知識・考えを持つ人」や「」ユニークな人」を求めるようになるではないだろうか。
あの人がどこにいるだろうや、
あの人を呼びたい、
あの人の話を聞きたい。
そんな本流を眺めて、しっかりと乗船したいものだと思う。