120 コミュニケーション

人の事を100%理解なんて出来ないって、解ってるくせに
あいつはああいうやつだからって言って止める。
そういう姿を驚くほど大人って世界では見る。
それはどっかで解るって事がネックしている。
「解る事は認める」 って筋が張っている。
ただそれは「 解らないものは認めない」、って事を含まれている。
「解る事は認める」 って時に、何処かで
「いつかはわかってもらえない存在である」 って事を覚悟しておかなくてはならない。
解るから認めるって事は、それは学生時代なり、大人になるまでに
培ったもので考えるって事になる。
そこでコミュニケーションをとっていると、また新たな土壌が作られる。
解る為に、様々な考え方を持ち、
解ってもらう為に、様々な伝え方をしたり。
自分はこういう人間だからって、我をはり、
自分の立場なり、テリトリーを固持しようとし、
不自由になるより、余程自由だと思う。
試行錯誤し考えるって事には自由さがある。
初めは、60しか解らなかった事を
70まで解るようになったら、その10はその人のもんだ。
真っ黒だった中に、10って違う色が足されていく。
苦手な人、嫌いな人。いろいろいるだろう。
そこであんなやつだからって、知っているのならば、
それを踏まえて、考え、出されたものがその人の新しい色なのだろう。
そこで、自分の力も、相手の力も出され、ほかではない力が作られる。
そうやって、ゆっくりと「考えてわかってもらい、考えてわかる」 って
事をして行く心構えをしておくのがこれからさらに必要になるだろう。
しなやかに、ゆっくりで鈍い力。
そういうものが今凄いなって思う。
衝撃や、早さよりも、何かしのびよりながらも
存在感がある。
力優しくも、ゆったりとした弱い力。
そうやって、離すって事をしていく過程人は進化していったのだろうな
っと最近ツクヅク思う。