34 2004 9.11

あれから早いもので3年が経ちました。
様々な情報が入り、そして変化して行った。あのシーンをたくさん見たよう気がする。
錯綜している状況なかで確実にわかっている事がある。
それは飛行機がビルに衝突した事。
そして二つの戦争があった事。イラク戦争とアフタニスタン戦争である。
「9−11」と言う事実は始め「事故」だと思われた。いわゆるミスである。
しかし、時間が経つにつれて「事件」になった。
それはアルカイダ=ラディンの関与が伝えられたからである。
そして、そこからラディンへの復讐とし、アフガニスタンへの戦争である。
未だにラディンを捕まえずにいる。
そして、イラクへの戦争である。フセイン・政府・大量破壊兵器が発端である。
これはフセインは捕まえられた。政府は崩壊した。
大量破壊兵器は未だに見つからない。この3年で起きた3つの事柄です。
テロリスト。テロ。この言葉を聴かない日はほとんどないでしょう。
これは英語の「テラー」恐怖から派生した言葉。語源を聞いて非常に納得した。
テロリストとは恐れられる存在だと思われている。それは間違いではない。
でも、もっとも恐れているのは彼らを怖がり過ぎる存在である。
その一人がブッシュである。保守的過ぎる。「超」が付くと言っていいだろう。
彼の発言に対して、「マイケル・ムーア」を筆頭に反対が多い。虚偽があるとの事だ。
二つに分かれる。正しいか正しくないか。平等に見る必要があるだろう。
一般市民にとって、本当の情報なのかどうか見分けるのはかなり難しい。
ただ一つ単純明快に解っている事がある。
平和の為の戦争ではない、と言うことである。
9・11も連鎖の中の一つでした。同様にイラクアフガニスタンでの戦争も平和も築くモノではない。
その時点で絶対にヤメルべきである。
3年で変わった事がいくつかある。
絶対的な価値観が無くなった。それはどこかに恐れ・不安があるからでしょう。
日本とアメリカという国は非常に類似した国になったと思う。共通しているのは保守的ということです。
アメリカは、人間の価値観は段階によって分けられる。
そのうちもっとも表層的な部分を捉えるようになっている。
日本は、反対意見を嫌い、より「なかれ主義」が強くなった事により上と下の意見を切るようになった。
原因としては、こうである。
9・11や戦争は緊急時です。人間の判断は非常に緊張感を持っている。極端な判断になる。
より明瞭でわかりやすいモノにある種の安心感を求めている。
より毒のないものを求めている。
どこかで予定調和・予定にある事をこなすようになっている。
自らの頭に描いている事以外を排除する。偶然性を嫌う。
それでは我々が生きている意味があるのだろうか? 進歩があるのだろうか?
人生が、現代社会が計算で成り立つ世界になる。
予想以上にいい事無いって事でもある。
以前にも話しましたが、子供と大人の境目がなくなってきている。
子供と大人が持っている情報がそれほどわかなくなっているからである。
それによって距離がなくなっている。当然つまらないだろう。
経験なんてものがなくなってきている。情報は結果の集積だから、結果的になってきている。
その情報と自分の持っている情報を照らし合わせて、違う場合は面白くないようだ。
利己的とも、個人主義とも、頑固で臨機応変にできないとも言える。
事柄の中から情報を見つけ出し、新たな考えを作るという作業。
それが無くなった。
これは一人一人の意見がフラットになったと言うことでもある。
個性をつぶす事になる。元々、存在する考え方を受け入れるという事。
現代人に個性が無いと言うが、大人にも責任はないだろうか?。
新たな進歩であったり、進展などありえない。
考え方・理論はいくらあってもそれは絶対に崩れる。
だからこそ変化してきた。
モラルであったり、愛情は絶対に変わらない。
悲しみは永遠に悲しい。それはいつの時代もそうである。
現代社会だけではない。今までもそうだし、これからもである。
喜怒哀楽はどんな時でも一緒で、どんな時も怒り感じる事は同じだし、悲しい事も同じ。
ならば、笑顔でいましょう。
3年間で学んだ一つに連鎖があります。
笑顔も連鎖します。 そういう強さを持つ事がいるのではないでしょうか。
peace!
&
love!