304 映画 クライマーズ・ハイ

この映画は1958年に御巣鷹山にて起きた
日本航空機墜落事故を題材にし、
取材する新聞記者を描いている。
新聞記者に限らずとも、
自分が思っていることを書く、伝えるというのはとても難しい。
その難しさというのは、
伝える相手や伝える内容、量、
そして時代や世代によっても違う。
それが社会や一種の常識というものになることもあるだろう。
最近では、
人と人との間にある「世間」から、
なにかその場に巣くうもの「空気」になりつつある。
しかし、その空気は担保するものが見つからない。
空気の正体とはなんなのだろうか。
誰が決めたわけでもない。
でも誰しもが決めてしまう。
担うのはなにだかわからない。
よくいう自己の責任でもないよね。
連帯で決めた目標でもないだろう。
あの当時、あの現場には空気があったのだろうか。
もしあったとしたら、
それは誰か個人が決めたわけでもない、
だがたしかに空気にした人たちがいたことになってしまう。
何かのことについて考える時には、
ぼくたちは知らずに「空気」を話している。
「空気」は言葉ではない。
言葉を言葉としてではなくて、
言葉を空気のようにつかって、
言葉を阻害して使ってしまう。
言葉は生き物だ。
生き物を育てるには環境を整えるのが一番だという。
言葉にとって環境とは自らではないだろうか。
自らの生きるところ、姿や生き方を、暮らしを整えたいと思う。
言葉の巣くう、自らの頭の中に、自らの体から、
自らの心の持ちようの豊かさを。
すると自らの言葉ではないだろうか。
自宅の小庭に植わる植物のように。