302 東野圭吾 ガリレオシリーズ

文章は一見すると所謂ベタにさえ思う。
テーマであっても一見のベタさがある。
ベタというのは、
つまりはよく知られている、見慣れた景色だろう。
だけど、
それが断片としてではなく、
連ねられた景色としてが文体を見ると何か不思議な映像になる。
写真が映像となったときも日常を映し出していた瞬間から、
次への転換のための飽きのようなものがあった。
そこでドラマ性や物語性、納得する要素が生まれた。
未開の地を開拓して行く勇ましさの魅力をぼくは知っているつもりだ。
だが、
彼は開拓されたはずの地を拓き未開の地を拡げ直しているように思う。
それには、
開拓されていることへの敬意、
未開であることへを確かに認める事がある。
それは難しい事と簡単な事の両方に敬意と認めることではないだろうか。
どちらとも一つとしてあることができない。
感情としてもそうだろう。
対極化された怒り、悲しみと喜び、楽しみを分け隔てることはできない。
複雑な感情であっても、単純な感情であってもそうだろう。
そして、
彼の書く文章あっても当てはまり、
開拓の地であり、未開の地にまっすぐ立っている。