170 ゲド戦記

よく出来た原作なだけに、
映像化するのは非常に難しいと思います。
っと、言うのも原作者ル=グウィンが描こうとした
静かで個人的な葛藤は、表にする、
言葉する、仕草や表情とする困難さがあるからです。
またその「静かで個人的な葛藤」が、
この映画では大きく二つあります。
一つは、外からは触れられずにいた葛藤、
もう一つは、外に触れられる葛藤。
もちろん、白黒とはっきりせずに、
区切りなく変わり、重なることさえある。
その微妙な変化を映し出すことが、
大きな目標だっただろう。
それを見事に成されていると思う。
それと、 この映画では評価が二分する。
理由としては、
言葉になっていない部分を、
表現したり、
もしくは汲み取ろうする。
その経路があるかどうかだと思う。
知るというのは、
言葉になっているものを、
見る、そして記憶することだろう。
わかるというのは、
言葉になっているものから、
言葉にされていないものを汲み取る、
そんな本人の作業を伴った結果、
身体に残るもの。
その「身体に残る」が経験されている人は、
この映画が「本人の作業」を伴ったいることを察知する
ことが出来るのだろう。
また、一つ思うのは、
子どもたちがどう思うのだろう?
ということで、
そして大人たちがこの作品を揶揄するのは、
如何なものだろう?、だ。
大人たちは大人たちの限られた時間や立場の中で、
感想や思いをするだろうが、
子どもたちだって、
子どもたちの限られた時間や立場の中で、
感想や思いをする。
それを、大人なたちの思いだけで、
断ち切ったりするには、
あまりにもこの作品は似つかわしく思う。
そして、子どもたち自身は心地よさを持っていると思う。
それはどんな時代でもそうだろう。
その事を考えみて、
大人なのではないだろうか。
そんな事がこの映画には含まれている。