41 阪神大震災から10年

関西に住んでいる私にとって忘れられない出来事の一つだろう。
いえ、人として忘れられないだろう。
当時12歳だった私にとっては湾岸戦争よりも衝撃だった。
自然に対する人間の脆さ。人間の命の尊さ。
メディアの報道の伝え方。政治的理由(住専)による悔しさ。
人間らしさ。色々学んだ。
地震がちょうど2ヶ月前に六甲山へ行った事を今でもはっきり覚えている。
そして、地震があった当時の被災地の光景も覚えている。
数回ボランティなんかもしたが、その時飛び交っていた空虚な言葉も覚えている。
TVに映る情報の中にピースサインをしている光景も激怒しながらみた事も覚えている。
報道番組に映る懸命に生きようとする人の事も覚えている。
それから、10年。
風化しようとしている事をとても感じる。
絶対にさせては行けないと懸命に励む人の意思を感じる。
人事だからと言う人の声も聞こえる。
今年は戦後60年の年でもある。
日本はよりポップになり、より表面的になり、より機能が重視され、より早くなり、より経済資本的になっている。
だが、薄くなった心や軽くなった心。これからの問題ではないだろうか。
そして21世紀は、宗教と科学と経済と政治をどうとらえていくかが必要ようだろう。
今までは、各々が単独で形成されていたが、それが絡みあっている。
インターネットを問題する声があったりするが、それは違う。
悪用する人間の問題。それは今までもあった。それが今までと違うのはデータとなり蓄積されていく事だろう。
情報の伝える媒体であり、コミュニケーションのツールに過ぎない。
要は使い方しだいなのである。
それはどんな事にも言える。
もし、ユートピアと言われるような楽園があったとしても、
そこで戦争をすれば被災地。
もし、寺のお坊さんのように座禅をしたり。インドの修行者のように苦行をしたりしていても、
そこに心があれば、よいのではないだろうか。
もし、億万長者、成功者、偉い発明家や偉い学者になったとしても、
そこに心がなければ、ダメなのではないだろうか。
もし、スーパーマンになっても、
人の痛みが解らなければ、ダメなのではないだろうか。